以前も書いたが、日本で中学時代を過ごした人はほぼ魯迅の『故郷』を読んでいる( 第401号 中国幻想小説傑作集 の巻 )。調べたことはないが、おそらく訳は竹内好のものだろう。試しに調べてみると中学校の国語教科書の採択は1位が光村図書で6割以上。2位が三省堂、3位東京書籍と続くが、この三社とも竹内好の訳である。こうなると魯迅と言えば竹内好という刷り込みが起きてくる。
 中国語で“经典(jīngdiǎn)”というと宗教上の教典などの意味のほかに、古典的な、また権威のあるものという意味がある。经典著作(古典的著作)とか经典作品(見ておくべき名作)のように使うわけで、日本映画の歴史を知りたいなら『七人の侍』を見なくてはいけない、というような意味だろう。本棚に古本屋で買った竹内好の『魯迅』がある。講談社文型文庫に収められているし魯迅について知ろうとするな2026.07.01魯迅ら、これは“经典著作”だろうと手を伸ばした。
 書かれた時期もよくわかっていなかったのだが、1941年に日本評論社の「東洋思想叢書」の一冊として契約、執筆されたものだった(武田泰淳は『司馬遷』)。1943年12月に召集令状が届くのだが、そのひと月前に脱稿している。戦局が悪化し生還の望みが薄かったことが文章にも影響しているような気もする。
 魯迅が世を去ったのは1936年だから、書かれたのはそれから4、5年しか経っていない。それゆえだろう、序章は魯迅の死から書かれる。「彼が好んだ『挣扎』という言葉が示す激しい悽愴な生き方は」という記述があり、「そうさつ」というルビが振ってあったのだが、「そうさつ」とキーボードで打っても「相殺」しか出てこない。これは「そうさい」だろう。中国語辞典では“挣扎(zhēngzhá)”は、「動詞 (苦境から逃れようと)あがく,もがく,のたうつ,もだえる,じたばたする.(白水社)」とある。竹内氏の註には「……がまんする、堪える、もがくなどの意味を持っている。魯迅精神を解く手がかりとして重要だと思うので、原語のまま、しばしば引用してある。強いて日本語に訳せば今日の用語法で『抵抗』というのに近い。」とある。上記辞書にある例文一覧を見るとほとんどが「もがき・あがき・ばたばたして」のような日本語訳で、20の例文の中で“他在旧社会拼死挣扎才幸留了残生。”(彼は旧社会で命懸けであらがい幸いにも生き残ることができた.)が竹内氏のいう「抵抗」に近いものだ。
 話はそれるが、“挣扎”をネットで検索したら、「AI による概要」として、「何かに行き詰まり、心身ともに苦しい状況におられるのですね。その「どうにかしたいけれど、どうにもならない」という狭間で、一人でもがいている時間は本当につらいものです。ひとりで全てを抱え込む必要はありません。もし今、誰かに話を聞いてほしい、専門家のアドバイスを受けたいと感じているなら、以下の相談窓口を利用してみてください。」のあとに「こころのダイヤル」などを紹介してくれた。ひとりで苦笑していた。
 さて、本書は「序章­―死と生について」に続いて「伝記に関する疑問」、「思想の形成」、「作品について」、「政治と文学」、「結語―啓蒙者魯迅」の章が立てられていて、附録として49年に書かれた「思想家としての魯迅」が付け加えられている。
 61年の未来社版のあとがきに「研究書にいたっては汗牛充棟である。材料の点だけでいっても、もうこの本の出る幕でない。」と氏自身が書いている。日本の敗戦前に出版されたものとして研究者は一読しなければならないかもしれない。だが一般的な読者である私にとっては魯迅について知識が深まったと言うより、竹内好について理解が深まったという感じが強い。

 ※ コメントは表示されないようになっていますが、書いていただければ私の方には届きます。

魯迅 (講談社文芸文庫 たJ 1)
竹内 好
講談社
1994-09-01


 第401号 中国幻想小説傑作集 の巻 
 2025年12月25日

『魯迅』  竹内好著  講談社文芸文庫たJ1
一九九四年九月一〇日第一刷発行  二〇〇〇年三月 六日第三刷発行
定価:本体940円※消費税が別に加算されます。

本書は一九八〇年九月筑摩書房刊『竹内好全集第一巻』を底本とし一九四四年日本評論社初版本の行あきに戻し、一九六一年未来社版などを参考とし、多少ふりがなを加えた。また、一九四六年日本評論社改訂版での、“中国”呼称を、著作権者の意向により初版に戻した。
附録  思想家としての魯迅
附録  草原文庫あとがき
附録  未来社版あとがき
略年譜 
解説                              川西政明
作家案内                         山下恒夫
著書・編著・訳書目録 山下恒夫
表記の変更について     山下恒夫
p.93 125 140