第1章の頭にご自分でも「これまで漢字に関係する本を何冊か出してきたからか、私は漢字や漢文に関する講義を担当している教師だと思われることがよくあるが実際に大学で担当しているのは、ほとんどが現代中国語の授業である。」と書かれているが、私も「へえ、そうだったのか」と思った。もちろん、阿辻先生も(一度でも直に講演でお話を聴いたことがあると勝手に先生と呼んでしまう。そして著書を読んでいるときも何だか声が聞こえて表情が見えるような気がする)現代中国語をおできになるとは思っていたが、初級のクラスから教えているところは、
「漢字の大家」のイメージが強いだけに何だか想像しにくい。
ご自身の学習経験に触れていて興味深い。阿辻先生は京大に入ったとき、文学部は第一外国語を6単位必要だった(週3コマ、他の学部は週2コマ)のだが、英語ではなくまだ勉強したことのなかったフランス語を履修し第二外国語で中国語を履修したのだという。さすがに学生の頃から器が違うなと思ったが、それでも苦労されたらしい。全くの余談だが私もフランス語を再履修したという恥ずかしい過去がある。
中国語は漢字を使うから見れば何となく理解でき、筆談すれば何とか意思疎通ができるだろうと思っている日本人がいるが、それは違うということを軸にしながら、中国語とはどういう言語なのかということを広く、様々なエピソードを交えて語っている。特に簡体字の成立については一章立てて解説している。「略字」などと言う日本人に腹を立てながら。
第4章に朝鮮通信使の話が出てくる。この「通信」とは「信(まこと)を通ず」ということで「相互に誠意を通わせる」という意で、現在の「通信」とは意味が違う。高校の授業で言わなければただの「情報交換」をイメージしてしまうだろう。さて、江戸時代の幕府との正式なやりとりは通訳がいたが、朝鮮通信使を出迎えた江戸時代の僧侶や儒者は漢文で交流していた。それは漢詩文を学んで理解していたからその古い文法に則って漢字を使って筆談できたのだ。そんな場面が藤沢周平の『市塵』にもあった気がする( 第424号 市塵 の巻 )。さらに思い返せば、平安時代には渤海国の使節と漢詩を読みあっていたのだ( 第381号 渤海国の謎 の巻 )。ユーラシアの東の「漢字文化圏」では中国以外の人どうしが書き言葉の中国語、いわゆる漢文で交流できていたのだが、かなり知識レベルの高い学術交流であっただろう。そういった素地のない適当な筆談では当然トンチンカンなことになる。笑える実例も挙げている。逆にそういった基本があると、甲骨文も読めるのだと実際に見せているのはさすがである。
最後の第6章では人民日報の記事を出して、ほら「見たらわかる」なんてことはないでしょ、と示している。この本を手に取った人はここまで読んできて、なるほどちゃんと中国語を勉強しなければ何となくわかるなんてことはない、とわかるはずでここまでやるかという感じである。
この本はどのような人が手にするのだろう。中国語を勉強した人や現在勉強している人にはとても興味深いと思う。これから勉強してみようかと思っている人にも薦めたいと思う。一方、「中国語は漢字なんだからだいたいわかるんじゃん」と思っている人はどうだろう。そういう人に「この本、読んでごらんよ」と言っても手に取るだろうか。
※ コメントは表示されないようになっていますが、書いていただければ私の方には届きます。
第395号 部首のはなし の巻
2025年12月04日
第424号 市塵 の巻
2026年03月12日
第381号 渤海国の謎 の巻
2025年10月11日
『近くて遠い中国語 日本人のカンちがい』 阿辻哲次著 中公新書1880
2007年1月25日発行 定価740円+税
「漢字の大家」のイメージが強いだけに何だか想像しにくい。ご自身の学習経験に触れていて興味深い。阿辻先生は京大に入ったとき、文学部は第一外国語を6単位必要だった(週3コマ、他の学部は週2コマ)のだが、英語ではなくまだ勉強したことのなかったフランス語を履修し第二外国語で中国語を履修したのだという。さすがに学生の頃から器が違うなと思ったが、それでも苦労されたらしい。全くの余談だが私もフランス語を再履修したという恥ずかしい過去がある。
中国語は漢字を使うから見れば何となく理解でき、筆談すれば何とか意思疎通ができるだろうと思っている日本人がいるが、それは違うということを軸にしながら、中国語とはどういう言語なのかということを広く、様々なエピソードを交えて語っている。特に簡体字の成立については一章立てて解説している。「略字」などと言う日本人に腹を立てながら。
第4章に朝鮮通信使の話が出てくる。この「通信」とは「信(まこと)を通ず」ということで「相互に誠意を通わせる」という意で、現在の「通信」とは意味が違う。高校の授業で言わなければただの「情報交換」をイメージしてしまうだろう。さて、江戸時代の幕府との正式なやりとりは通訳がいたが、朝鮮通信使を出迎えた江戸時代の僧侶や儒者は漢文で交流していた。それは漢詩文を学んで理解していたからその古い文法に則って漢字を使って筆談できたのだ。そんな場面が藤沢周平の『市塵』にもあった気がする( 第424号 市塵 の巻 )。さらに思い返せば、平安時代には渤海国の使節と漢詩を読みあっていたのだ( 第381号 渤海国の謎 の巻 )。ユーラシアの東の「漢字文化圏」では中国以外の人どうしが書き言葉の中国語、いわゆる漢文で交流できていたのだが、かなり知識レベルの高い学術交流であっただろう。そういった素地のない適当な筆談では当然トンチンカンなことになる。笑える実例も挙げている。逆にそういった基本があると、甲骨文も読めるのだと実際に見せているのはさすがである。
最後の第6章では人民日報の記事を出して、ほら「見たらわかる」なんてことはないでしょ、と示している。この本を手に取った人はここまで読んできて、なるほどちゃんと中国語を勉強しなければ何となくわかるなんてことはない、とわかるはずでここまでやるかという感じである。
この本はどのような人が手にするのだろう。中国語を勉強した人や現在勉強している人にはとても興味深いと思う。これから勉強してみようかと思っている人にも薦めたいと思う。一方、「中国語は漢字なんだからだいたいわかるんじゃん」と思っている人はどうだろう。そういう人に「この本、読んでごらんよ」と言っても手に取るだろうか。
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第395号 部首のはなし の巻
2025年12月04日
第424号 市塵 の巻
2026年03月12日
第381号 渤海国の謎 の巻
2025年10月11日
『近くて遠い中国語 日本人のカンちがい』 阿辻哲次著 中公新書1880
2007年1月25日発行 定価740円+税

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