後藤正治氏はどちらかというとスポーツノンフィクションで知られているが、氏の著作を読んだのは、『奇跡の画家』が最初だった。静かな筆致でありながら感動を引き出す文章に触れて、『ふたつの生命』、『私だけの勲章』などを読んだ。氏のほかの著作を探していて、『清冽 ――詩人茨木のり子の肖像』という作品があるのを知り、詩人をノンフィクション作家がどのように描き出すか気になっていたのだが、しばらくそのままになっていた。
昨年、友人が「茨木のり子の家を守る
会」の会報「のり子手帖」に原稿を書いたということで送ってくれた。それまで何度も保谷市(現西東京市)の新青梅街道や富士街道は車で通ったことがあったのだが、恥ずかしながら茨木のり子の家があったことを知らなかった。それでまたこの本が気になり手に入れて読みたくなったという次第。
表紙の写真がとてもいい。胸の奥深いところに多くの思索がありながら外には出さずに静かに微笑んでいる空気がある。作中、筑摩書房の編集者中川美智子が初めて会ったとき「なんてきれいな人なんだろう」という印象を持ち、「問いかけるとじっと考えてからゆっくりと返事が返ってくる。口調と仕草を含め、なんとも初々しい感触が伝わってくる人」と書かれているが、それが感じられる写真だ。私には顔がばっと浮かぶ詩人は少ない。メディアによく出ていた谷川俊太郎や講演会で話を聞いたことのある吉増剛造くらいだ。詩はもちろん作品となったら作者を離れるが、人の口からでる言語でありその人が浮かぶことで言葉をよりダイレクトに受け止められるような気がした。
1999年作者が73歳の時に『倚りかからず』という最後の詩集が発行されたころから、その6年後に自宅に一人で亡くなったことが描かれる第一章から始まり、周辺の人へのインタビュー、茨木自身の随筆や『詩のこころを読む』などの記述で検証するように人生をたどっていく。
詩とは言葉を並べて、あるいは組み合わせて「作る」というよりも、生活の中であらゆる場面で自己が真剣に向き合ったときの思いを最適な言葉で切り取ったもののような気がした。商業用キャッチコピーとは違うのだ。
私は記憶の中にあまりないのだが、中学・高校の国語の教科書に「自分の感受性くらい」が採り上げられていて(私の頃にはなかったからかもしれない)、中高生には「ばかものよの詩」として記憶に残っているらしい。作者が自身に向けて「しっかりしろ」と言っていることとしてより、「ぱかものよ」と言われているような印象がつよいからかもしれない。十代のころは「自分のことをわかってくれよ」という気持ちのほうが強くて当たり前だ。実際、今から思い返してみると自分もそうだった気がする。歳をとってわかるのかもしれない。
解説で梯久美子が「清らかであるためには烈しくなくてはならないのだ」と書いている。そういう部分もあるだろう。上手く言えないが、強さや烈しさと言うより、「弱さ」から発してそれを乗り越え自分を励まし、そしてどこかにいる自分と同じような誰かに対するまなざしを持っている気がする。
真摯さを持ち続ける強さを持った人だったのだろう。それは地味な強さだ。亡くなってから、そうだったなとわかるのかもしれない。そういう人が亡くなった後に「烈しさ」を感じるのかもしれない。
蛇足だが、読んでいる途中で自分が氏の『ハングルへの旅』を読んでいたことを思い出した。働き始めて3年目か4年目だったか。毎日がドタバタと過ぎていくことに空しさを覚え、少しずつでもいいから継続して勉強するものを見つけたいと思い、語学の学習を思いついた結果手に取ったような気がする。ハングルを勉強するには至らなかったのだが。
★★★★☆
※ コメントは表示されないようになっていますが、書いていただければ私の方には届きます。
『清冽 ――詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治著 中公文庫 こ 58 1
2014年11月25日 初版発行 ¥880+税
2022年 4月10日 再版発行
昨年、友人が「茨木のり子の家を守る
会」の会報「のり子手帖」に原稿を書いたということで送ってくれた。それまで何度も保谷市(現西東京市)の新青梅街道や富士街道は車で通ったことがあったのだが、恥ずかしながら茨木のり子の家があったことを知らなかった。それでまたこの本が気になり手に入れて読みたくなったという次第。表紙の写真がとてもいい。胸の奥深いところに多くの思索がありながら外には出さずに静かに微笑んでいる空気がある。作中、筑摩書房の編集者中川美智子が初めて会ったとき「なんてきれいな人なんだろう」という印象を持ち、「問いかけるとじっと考えてからゆっくりと返事が返ってくる。口調と仕草を含め、なんとも初々しい感触が伝わってくる人」と書かれているが、それが感じられる写真だ。私には顔がばっと浮かぶ詩人は少ない。メディアによく出ていた谷川俊太郎や講演会で話を聞いたことのある吉増剛造くらいだ。詩はもちろん作品となったら作者を離れるが、人の口からでる言語でありその人が浮かぶことで言葉をよりダイレクトに受け止められるような気がした。
1999年作者が73歳の時に『倚りかからず』という最後の詩集が発行されたころから、その6年後に自宅に一人で亡くなったことが描かれる第一章から始まり、周辺の人へのインタビュー、茨木自身の随筆や『詩のこころを読む』などの記述で検証するように人生をたどっていく。
詩とは言葉を並べて、あるいは組み合わせて「作る」というよりも、生活の中であらゆる場面で自己が真剣に向き合ったときの思いを最適な言葉で切り取ったもののような気がした。商業用キャッチコピーとは違うのだ。
私は記憶の中にあまりないのだが、中学・高校の国語の教科書に「自分の感受性くらい」が採り上げられていて(私の頃にはなかったからかもしれない)、中高生には「ばかものよの詩」として記憶に残っているらしい。作者が自身に向けて「しっかりしろ」と言っていることとしてより、「ぱかものよ」と言われているような印象がつよいからかもしれない。十代のころは「自分のことをわかってくれよ」という気持ちのほうが強くて当たり前だ。実際、今から思い返してみると自分もそうだった気がする。歳をとってわかるのかもしれない。
解説で梯久美子が「清らかであるためには烈しくなくてはならないのだ」と書いている。そういう部分もあるだろう。上手く言えないが、強さや烈しさと言うより、「弱さ」から発してそれを乗り越え自分を励まし、そしてどこかにいる自分と同じような誰かに対するまなざしを持っている気がする。
真摯さを持ち続ける強さを持った人だったのだろう。それは地味な強さだ。亡くなってから、そうだったなとわかるのかもしれない。そういう人が亡くなった後に「烈しさ」を感じるのかもしれない。
蛇足だが、読んでいる途中で自分が氏の『ハングルへの旅』を読んでいたことを思い出した。働き始めて3年目か4年目だったか。毎日がドタバタと過ぎていくことに空しさを覚え、少しずつでもいいから継続して勉強するものを見つけたいと思い、語学の学習を思いついた結果手に取ったような気がする。ハングルを勉強するには至らなかったのだが。
★★★★☆
※ コメントは表示されないようになっていますが、書いていただければ私の方には届きます。
『清冽 ――詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治著 中公文庫 こ 58 1
2014年11月25日 初版発行 ¥880+税
2022年 4月10日 再版発行



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