『傷つくことだけ上手になって』という本のタイトルを思い出した。40年くらい前に読んだかもしれない。つかこうへいのエッセイ集だったと思う。内容は覚えていない。
マルハラという言葉を聞いて、何だそりゃ?と思い、調べると「。」を文末に付けると威圧感を感じるというのを読んだときに脳裏に浮かんだのだった。
文の終了を示すために「。」を付けるのは、文を書くものの共通のルールではないか。それを勝手にやらないことにして従来通りにやっている人たちに「自分たちを傷つけている」と言っているように感じたのだ。
『日本語はどんな言語か』小池清治著 ちくま新書009
一九九四年一〇月二〇日 第一刷発行 ¥660+税
マルハラという言葉を聞いて、何だそりゃ?と思い、調べると「。」を文末に付けると威圧感を感じるというのを読んだときに脳裏に浮かんだのだった。
文の終了を示すために「。」を付けるのは、文を書くものの共通のルールではないか。それを勝手にやらないことにして従来通りにやっている人たちに「自分たちを傷つけている」と言っているように感じたのだ。
『日本語はどんな言語か』小池清治著p.023では、「男が 本を 買った」では文にならないと言う。例えば「男が本を買ったのが、物語の発端だった。」の
ように「表現の素材、叙述だけを表す語句」であり、末尾に文終止マークの一種「。」(句点、下降調のイントネーション)が存在して「男が本を買った。」は文になるという。
叙述構文は叙部と述部に分けられ、例えば、「太郎が中央公園でまゆみちゃんと楽しそうに遊んでいたよ。」という文は「太郎が中央公園でまゆみちゃんと楽しそうに」が叙部で、「遊んでいたよ。」が述部となる。そして、「遊んでいたよ。」は、「遊ん」・「で」・「い」・「た」・「よ」・「。」で構成されていて、構造としては「遊ん(中核用言)/で い(アスペクト)/た(テンス)/よ(ムード)/。(陳述)」のようになっている。述部の配列順序は規則的であるとのことだ。こうして考えると外国人からすれば理解しにくい、助動詞や助詞がだらだらとくっついてできる述部もちょっとすっきりするかもしれない。
「は」と「が」について、有名な『伊豆の踊子』り一場面「はしけはひどく揺れた。踊り子はやはり唇をきつと閉ぢたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せたはしけが帰つて行つた。栄吉はさつき私がやつたばかりの鳥打帽をしきりに振つてゐた。ずつと遠ざかつてから踊子が白いものを振り始めた。」を引用して説明している。 線部「さよならを言はうとした」のは「私」なのか「踊子」なのかわかるだろうか。確かに迷うところである。筆者の説明になるほどと思うと同時に、文法的な考えが誤読のない文章を書くことにつながると思った。なんとなく書いていてはだめなのだ。川端康成は考えて書いていたのだろうか。
ように「表現の素材、叙述だけを表す語句」であり、末尾に文終止マークの一種「。」(句点、下降調のイントネーション)が存在して「男が本を買った。」は文になるという。叙述構文は叙部と述部に分けられ、例えば、「太郎が中央公園でまゆみちゃんと楽しそうに遊んでいたよ。」という文は「太郎が中央公園でまゆみちゃんと楽しそうに」が叙部で、「遊んでいたよ。」が述部となる。そして、「遊んでいたよ。」は、「遊ん」・「で」・「い」・「た」・「よ」・「。」で構成されていて、構造としては「遊ん(中核用言)/で い(アスペクト)/た(テンス)/よ(ムード)/。(陳述)」のようになっている。述部の配列順序は規則的であるとのことだ。こうして考えると外国人からすれば理解しにくい、助動詞や助詞がだらだらとくっついてできる述部もちょっとすっきりするかもしれない。
「は」と「が」について、有名な『伊豆の踊子』り一場面「はしけはひどく揺れた。踊り子はやはり唇をきつと閉ぢたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せたはしけが帰つて行つた。栄吉はさつき私がやつたばかりの鳥打帽をしきりに振つてゐた。ずつと遠ざかつてから踊子が白いものを振り始めた。」を引用して説明している。 線部「さよならを言はうとした」のは「私」なのか「踊子」なのかわかるだろうか。確かに迷うところである。筆者の説明になるほどと思うと同時に、文法的な考えが誤読のない文章を書くことにつながると思った。なんとなく書いていてはだめなのだ。川端康成は考えて書いていたのだろうか。
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『日本語はどんな言語か』小池清治著 ちくま新書009
一九九四年一〇月二〇日 第一刷発行 ¥660+税

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