源氏物語の末摘花は容貌があれこれ書かれていることもあり、教科書に取り上げられていない。容貌については置くとして、確か黒貂の毛皮を着ていたということも書いてあったはずと思った。片付けようとして平積みになっている本から江川達也のコミック『源氏物語』を抜き取り、どう描いているのかページをめくってみた。この江川源氏、原本の写本文字をずっとコマの中に書き込んでストーリーを展開している。かなり原作に忠実だ。
巻末には平仮名と漢字の対応表まで載せている。性描写は氏の作品であるからエロティックに描かれているが、それも源氏物語をリアルに表現すればこういうことでしょ、という主張にも思える。末摘花の描写だが、見た瞬間これはひどすぎるのではないかと思った。しかし、原作の記述と照らし合わせるとその通りに描いているようにも見えてきた。黒貂の毛皮もしっかり描かれている。
原文をきっちり見ていたわけではないが、以前からなぜこの女性は毛皮を着ているのかとぼんやり不思議に思っていた。男性と付き合うことになれておらず文の返し方もよくわからない。着物のセンスもないという人物造形かとは思うが、毛皮というのが今ひとつしっくりこなかったのだ。
先月『渤海国の謎』上田雄著を読んだのだが、平安時代の貴族には毛皮がたいそう人気だったらしい。渤海使が進物として持ってきたものの中の毛皮は稀少であり貴族のステータスシンボルとなった。
朝廷は「過度の毛皮競争を防ぐために、しばしば『毛皮禁止令』を出していたよう」という記述もある。
末摘花が毛皮を着ていたというのは身分が高く裕福だった家が落ちぶれた家の女性ということ、ここぞというときに毛皮を着ていたということなのかもれしない。
毛皮の話から入ってしまったが、7世紀の終り頃から10世紀の末にかけて栄えた渤海国と日本のとの関係はもっと考えられていい。史跡がほとんど残っていないこともあり、遣唐使のことは誰でも知っているが渤海国との交流はほとんど知られていない。日本人と渤海国人が漢文を読みあってできばえをたたえ合ったりした様子は漢字文化圏の国際文化交流の一齣だ。おそらくその中には菅原道真もいたに違いない。
今のロシアと北朝鮮との国境辺りと日本海側を行き来していたようで、この海上ルートは唐の長安とのバイパスルートになったこともあった。想像以上に人の動きはあったのだ。そもそも渤海国が使節を派遣したのも当時の東アジアの国との外交関係に発してのものだ。自分が日本史を勉強したときは日本の中が中心だったが、今は周辺国との関わりを学べているのだろうか。
ライシャワー(昭和のアメリカの駐日大使)の著作『円仁の日記ー入唐求法巡礼行記』の円仁が山東半島の開元寺の壁画を写し取ったことにより、それよりも80年前に渤海国ルートでこの開元寺に日本人僧が来ていたことがわかるくだりはこの時代に人々がそれぞれの思いを持ってダイナミックに移動していたことが伝わってくる。時代小説や劇画の原作にできそうである。誰か書かないかな。
※ コメントは表示されないようになっていますが、書いていただければ私の方には届きます。
『渤海国の謎 知られざるアジアの古代王国』上田雄著 講談社現代新書1104
一九九二年六月二〇日第一刷発行 ¥650(本体631円)
巻末には平仮名と漢字の対応表まで載せている。性描写は氏の作品であるからエロティックに描かれているが、それも源氏物語をリアルに表現すればこういうことでしょ、という主張にも思える。末摘花の描写だが、見た瞬間これはひどすぎるのではないかと思った。しかし、原作の記述と照らし合わせるとその通りに描いているようにも見えてきた。黒貂の毛皮もしっかり描かれている。
原文をきっちり見ていたわけではないが、以前からなぜこの女性は毛皮を着ているのかとぼんやり不思議に思っていた。男性と付き合うことになれておらず文の返し方もよくわからない。着物のセンスもないという人物造形かとは思うが、毛皮というのが今ひとつしっくりこなかったのだ。
先月『渤海国の謎』上田雄著を読んだのだが、平安時代の貴族には毛皮がたいそう人気だったらしい。渤海使が進物として持ってきたものの中の毛皮は稀少であり貴族のステータスシンボルとなった。
朝廷は「過度の毛皮競争を防ぐために、しばしば『毛皮禁止令』を出していたよう」という記述もある。末摘花が毛皮を着ていたというのは身分が高く裕福だった家が落ちぶれた家の女性ということ、ここぞというときに毛皮を着ていたということなのかもれしない。
毛皮の話から入ってしまったが、7世紀の終り頃から10世紀の末にかけて栄えた渤海国と日本のとの関係はもっと考えられていい。史跡がほとんど残っていないこともあり、遣唐使のことは誰でも知っているが渤海国との交流はほとんど知られていない。日本人と渤海国人が漢文を読みあってできばえをたたえ合ったりした様子は漢字文化圏の国際文化交流の一齣だ。おそらくその中には菅原道真もいたに違いない。
今のロシアと北朝鮮との国境辺りと日本海側を行き来していたようで、この海上ルートは唐の長安とのバイパスルートになったこともあった。想像以上に人の動きはあったのだ。そもそも渤海国が使節を派遣したのも当時の東アジアの国との外交関係に発してのものだ。自分が日本史を勉強したときは日本の中が中心だったが、今は周辺国との関わりを学べているのだろうか。
ライシャワー(昭和のアメリカの駐日大使)の著作『円仁の日記ー入唐求法巡礼行記』の円仁が山東半島の開元寺の壁画を写し取ったことにより、それよりも80年前に渤海国ルートでこの開元寺に日本人僧が来ていたことがわかるくだりはこの時代に人々がそれぞれの思いを持ってダイナミックに移動していたことが伝わってくる。時代小説や劇画の原作にできそうである。誰か書かないかな。
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『渤海国の謎 知られざるアジアの古代王国』上田雄著 講談社現代新書1104
一九九二年六月二〇日第一刷発行 ¥650(本体631円)


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