例えば、アスリートはちょっとした違和感を感じたりして最大のパフォーマンスを発揮できなかったらとても悔しい思いをするだろうが、自分の身体に不安を抱えている人から見たら、すごい能力を発揮できなくても元気に努力できているだけでもとてもうらやましく見えるだろう。
 そんな極端なことではないが、たいした能力のない私でも自分の身体に不安を感じてもっときちんと出来るはずのことが出来ないとやはりつらく感じる。が、それほど大きなことではなくて、くよくよ悩むようなものとして考えてはいけないのかもしれない。もっと足が長かったらなあ、とか、眼がぱっちりしていたら、なんて冗談交じりに話すくらいのことなのかもしれない。
 しかし、生活していて憂いが生じ、今まで出来たことがうまく出来ないとなると、当然のことだがとてもつらい。おそらく私は健康的には何の問題もない元気な人間だと人から思われているのではないか。自分の体に不安や心配がないと思われていると、この落差も何かとイライラの一因になる。よく休む人なら休みを取っても「また体調が良くないのだろう。」と思われて何の会話もないかもしれないが、滅多に風邪も引かない自分の場合は、相手に悪気はないのだろうが「どうしたんですか。」と聞かれることになる(本当に心配してくれているのかもしれない。申し訳ない)。いやあ、実はこんな不安をいつも抱えて生活しているんだよ、とながながと話すのも楽しいことではないので適当にお茶を濁すことになる。
 先日ネットで、医師の共感と腰痛患者の改善に関連があるという記事を見た。自分は腰痛持ちではないが、生活の質は精神のあり方と大いに関連するのだから、共感してくれる人がいると精神的な安定につながり前向きに日々を過ごすことにつながるのは道理だ。医者が共感してくれなかったら不安は大きくなるのも道理だが、実際はなかなかそうではないかもしれない。
 そんな気持ちで医者に診てもらった後、静かな道を歩きたくなって、人通りの少ない方へ歩いて行ったら帰るべき方向からどんどん外れていった。
 もういい加減歩いたので、駅があったら2024.05.23関孝和墓乗ろうと思ったが、なかなか駅がない。ふと眼に入ったのが、関孝和の墓があるという表示が見えた。名前だけは知っている。江戸時代の和算の大家、つまり数学者だ。確か円周率もかなり正確な数値を導いていたとか、微分の基礎を発見したとか聞いたことがある。浄輪寺というお寺にふらりと入った。新宿区弁天町にある。
 墓は墓地の奥の方にある。手前の石のモニュメントの上には円周率を求めたものであろう図が彫られている。
 数学はよくわからないのだが、西洋の数学の発展に引けを取らない存在だったというのに、関についてはよくわかっていないことも多いようだ。
 寺の入り口には、「都史跡 関孝和墓」と彫られた石柱とお寺にはよく貼り出されている一言があった。「今月の聖語」とあるから毎月ことばを換えているのだろう。2024.05.23関孝和浄輪寺
 「このやまいは 仏の 御はからいか」
 一病息災という言葉もある。病気をひとつ持っているくらいの方が、用心するので健康でいるというのだろう。この「御はからいか」という言葉は単に健康でいるためというより、何というか心のあり方について示しているような気がする。
 自分のような、人間ができていないものは、ひとつ「なやましいもの」を持つことで、傲慢にならずに、つらい思いをしている人の気持ちを少しはわかろうとするべきだということかもしれない。コンプレックスだらけで能力や環境に恵まれた人を羨むことが多かったが、できることをできるだけやる、何か不都合なことが起こったときはしかたがない、と少し吹っ切れたような気がした。