少し前だが『鴨川ランナー』を読んだ。新聞の書評欄で見てタイトルが気になったし、京都文学賞(そういうものがあるんだ、とその時は思った)を受賞した作品というのも気になった。
読み始めると、「きみが初めて京都を訪れ
たのは十六歳のときだ。」の「きみ」が誰なのか戸惑う。しばらく読んで指しているのは主人公だと思うものの、全体のトーンはモノローグのような感じで続いていくので、語り手を指しているのに「きみ」を使う違和感のようなものは読み手は抱えたままだ。
たのは十六歳のときだ。」の「きみ」が誰なのか戸惑う。しばらく読んで指しているのは主人公だと思うものの、全体のトーンはモノローグのような感じで続いていくので、語り手を指しているのに「きみ」を使う違和感のようなものは読み手は抱えたままだ。 2022年03月23日朝日新聞夕刊のコラムで「〈きみ〉という二人称による語りを選んだのは、『距離感がちょうどよかった』から。語り手と主人公、そして自身と主人公の境界線を『二人称が適度にぼかしてくれました』。」とあった。金原ひとみ氏は「全編を貫く『きみ』という二人称には、主人公の『僕』にも『俺』にも『私』にもなれなさが表れている。」と2021年12月18日朝日新聞朝刊書評欄で書いている。私には「きみ」という二人称を用いているのは、外国語を使う自分、外国語を学ぶ自分を客観視し、もう一人の自分のように突き放して存在させようとしているように見えた。が、「〈きみ〉という二人称による語りを選」ぶというのは、英語ネーティブが日本語で小説を書いたからこそできる大胆な選択だと思う。
自分も中国語で話してそのモードにしっかり填まっているようなときは「違う自分」になっているように感じるときがある。頭の中の日本語で処理されているイメージとは違ったものを相手に伝えているような、ちょっとした空々しさを感じながらコミュニケーションしているような感覚をどこかで感じている気がする。
コミュニケーションの流れに乗っているときでなく、単語レベルでも溝のようなものを感じることはよくある。本書でもp.14に、
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――これはオマモリと言う。
――英語で言うとアミュレット。
……
本当にそうなのか。
オマモリがアミュレットになるとき、何かが失われてしまうのではないか。
きみはそれがなぜか気になって仕方がなかった。しかし、先生にその話を持ち出そうとしたら、自分の思いを適切に伝える言葉を、英語でも日本語でも、持ち合わせていないことに気づいた。
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と日本に来たときのことを振り返る場面があるが、この表現しにくい感覚は無数と言っていいくらいよく出くわすことである。
作者は、グレゴリー・ケズナジャット氏。“Gregory Khezrnejat”と綴る。アメリカ合衆国生まれで、父親はイラン人。日本に英語指導助手として過ごした後、谷崎潤一郎の研究に進む。
当たり前だが、現代において、もはや単純な「〇〇人」という括りなどない。〇〇人の思考と△△人の思考の違いなどという言い方は軽い話の種でなければ成り立たない。その人の表現や思考はその人の生きてきたプロセスやストーリーから生まれるものだ。
異なる言語間の違和感はとりわけ目立つが、よくよく考えれば母語にあっても相手に合わせた言い回しを敢えて使って心の中に隙間ができるのを感じたり、話し相手が話題を世間的な決まり文句に納めようとしてザラッとした感覚を持ったりするのも日常的にあって、私たちは本当の理解とか正確な心情の表現などは非常に困難なことだと思い知る。
そう思ったとき、前述した金原ひとみ氏の書評の最後の記述は腑に落ちる気がする。
「しかし著者は、母語ではない日本語で本書を書くことにより、削ぎ落とされ、零れ落ちてしまう、言葉にできないものの輪郭を浮かび上がらせることに成功している。言葉とは、むしろ言葉では表せないものを表すために存在しているのだ。本書はそんな儚く重々しい確信に、読者を導いてくれる。」
複数の言語に触れ感覚の広がりを持つことの潜在的な力、表現の可能性を思う。
複数の言語に触れ感覚の広がりを持つことの潜在的な力、表現の可能性を思う。
『鴨川ランナー』 グレゴリー・ケズナジャット著 講談社
2021年10月25日第1刷発行 ¥1500円+税
2022年 1 月21日第2刷発行
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